声優 ワークショップ 養成所
スタニスラフスキー理論・メソッド演技
「俳優修業」(スタニスラフスキー著)とは、小説形式で書かれた演劇書です。
ロシアの演劇学校に入学した主人公の男の子が、演出家のトルツォフから演技を学び、仲間と共に成長していくというストーリーです。
スタニスラフスキー理論、メソッド演技の原点とも呼ばれている作品です。


俳優修業を読んで、印象に残ったエピソードを紹介させていただきます。
ワークショップや養成所のレッスン等に、ぜひお役立てください。 声優 ワークショップ 養成所 banner
【登場人物たち】

トルツォフ

コスチャ

マリア

ワーニャ

エピソード1

演出家の最初の課業。
「幕が上がると、君は舞台で腰をかけている。ひとりきりだ。君はいつまでも腰をかけたままだ。そして幕が下りる。それが芝居の全部だ。できるか」
僕は舞台中央におかれた。これは本当の芝居ではなかった。それにもかかわらず、僕は自家撞着(自己矛盾)の衝動にみたされていた。
僕の一部は、見物が退屈しないように彼らを楽しませようとした。
他の一部は、彼らに注意を払うなと語った。
僕の脚や、腕や、頭や、胴は、僕の命ずることをやりはするものの、勝手に蛇足をくわえた。腕か脚をほんの少し動かすと、絵のためにポーズをつけているように見えるのである。
奇妙なものだ!
僕はたった一度しか舞台に立ったことはないのに、僕にとっては舞台でただ腰を掛けているよりも、気取って腰を掛けている方がずっとやさしかった。
僕は自分のなすべきことを考えることができなかった。
やがて、彼は他の人たちにも同じ練習をやらせた。
「いや、そうではない。君たちはただ腰を掛けてはいなかった。」
彼は舞台へ上っていって肘掛椅子に腰を下ろし、あたかも家にいるようにくつろいだ。
彼は何もしなければ、しようともしなかったが、それでいて彼のただ腰を掛けている姿勢が素晴らしかった。
僕らは彼を見守り、彼の心中に起こっていることを知りたいと思った。

彼が微笑した。僕らもそうした。彼は物思わし気に見えた。すると僕らは彼の心を掠(かす)めるものが知りたくてたまらなくなった。彼がなにかを眺めた、すると僕らは彼の注意を惹いたものがなんであるか、それを知らなければならないように感じた。
これは、他の人たちが舞台で腰を掛けている時には起こらないことであった。
演出家は僕らにすこしも注意を払わないのに、僕らは強く彼にひきつけられた。
その秘密はなんだろう。彼は自ら語った。
「何事によらず、舞台で起こることは、ひとつの目的のためにあらねばならない。
単に観衆に見えるようにするという一般的な目的ではなく、ひとつの特殊な目的のためにあらねばならない。
そして、それは容易なことではない。」
「マリア、ここへ上ってきたまえ。君と共演しよう」
彼女は舞台中央の椅子にかけさせられた。彼女は、そわそわと待ち、意識的に動き、スカートを引っ張りはじめた。
演出家は彼女の傍に立ち、たんねんに手帳のページをめくっていた。
そのうちに、マリアは静かになり、ついに動かなくなって、その視線は彼の上に固定された。
彼女は彼の邪魔をすることなく、ひたすら命令の下るのを待ち受けていた。
そのポーズは真に迫り、自然であった。
そして、幕が下りた。
「どんな気がする?」
「なぜですか?私たち、演じたのですか?」
「もちろん」
「あら!わたし、ただ腰をかけて、手帳をみつけて、『なにかをしろ!』と言ってくださるのを待ってただけです。わたし、なにも演じませんでした」
「それが一番いいところだ。君は腰をかけて待った。そしてなんにも演じなかった
演出家はみんなの方へ向き直った。
「どちらがおもしろかった?
舞台で腰をかけ、ソーニャのしたように可愛らしい足や、グリーシャのしたように全身を見せつけるのと、マリアがしたように、なにかが起こるのを待つというような単純な目的にしろ、ある特殊な目的のために腰をかけているのと?
それはそれ自身として固有の興味はないかもしれない。しかし、それは生きている。
これに反して、自分を見せつけることは、君たちを生きた芸術の外に追い出してしまう。
舞台においては、常になにごとかを行っていなければならない。行動、運動は、俳優の追及する演技の根底である」
しかし、いま、行うことが必要だ。そして僕のしたように、足や姿を見せつけるのは行動ではない、そう言われました。
なぜ、先生のなさったように、一指も動かさず椅子に腰掛けているのが行動なのですか?
僕には、行動の完全な欠如のように思われました。
いいかね。舞台で、微動だにせず腰掛けている人間は、不活動を意味するのではない。
身じろぎもせず腰をかけていても、行動をとることはできるのだ。
身体が動かないのは、心理描写の結果であり、演技上、はるかに重要なのは、そういう内的活動である。
演技の本質は、見せかけの芝居ではなく、その精神的内容にあるのだ。

エピソード2

新しい戯曲をやろう。その内容はこうだ。
君のお母さんが職を失った。その結果、君は演劇学校の授業料を払えず、退学せざるをえなくなる。
ところが、一人の友達が君を救いに来てくれた。彼女は高価なブローチを持ってきてくれた。
君は感動するが、ブローチを受け取ることはできない。君は辞退しようとする。
友達はブローチをカーテンに刺して立ち去る。
君は友達を廊下まで追っていき、厚意を受けることにする。
君はブローチをとりに部屋へ戻るが、見つからない!
誰かが入ってきて持っていったのだろうか。下宿では、それもありうることだ。
念入りな捜索が始まる・・・・。
私がカーテンの襞にピンを刺すから、君はそれを見つけなさい。
マリアは舞台へ駈け上った。
彼女はフットライトの縁へ駈け寄り、両手で頭を抱え走り去った。
ついで彼女は、また進み出て、今度は反対の方角へ立ち去った。
舞台の端へ移動すると、彼女はカーテンの襞をつかみ、それを絶望的にゆすり、頭をそこに埋めた。
この行為で彼女はブローチの捜索をあらわすつもりであった。
それが見つからないので、彼女は素早く振り向いて、悲しみを表すためらしく、頭をかかえたり、胸をおさえたりしながら舞台を駈け去った。
僕ら平土間に腰をかけているものは、どうにも笑わずにはいられなかった。
「どんな気がする」
「ほんとに素敵。どんなに素敵かとても言えません。
まるで、デビューがすんだみたいな気がします。・・・ほんとに舞台が気楽で」
「それは結構。しかし、ブローチはどこだ」
「あら?いいえ、私、わすれました」
「それはおかしい。
君はしきりにあれをさがしていたのに、それを忘れたとは。
この事を忘れないように。ブローチが見つかれば君は救われる。
君は引き続きこの課業へも出られるだろう。
だが、もしピンが見つからなかったら、君は退学しなければならなくなる」
たちまちマリアの顔は緊張した。
彼女はカーテンに目を据えて、布の襞をいちいち上から下まで根気よく捜した。
今度は、彼女の捜索はずっとゆっくりしていたが、彼女がそんなふりはしようとしないのに、ほんとうに興奮しているのがみてとれた。
「ないわ」
襞を残らず調べ終えると、彼女は絶望と驚愕をこめて叫んだ。
彼女の顔はすっかり、苦悩と悲しみとにとざされていた。
僕らは、瞳をこらし、息を殺した。
ピンのなくなったことがどんなに彼女の心にこたえたか、手に取るように感じられた。
「今度は、どんな気がする」
無意識的にマリアの目は、まだ舞台の床に注がれていた。
「わかりません。よく捜しました」
「本当だ。今度はたしかに捜した。しかし、最初には君はなにをしたのだ」
「あら、最初には、私、興奮しました。悩みました」
「どちらの感情が良かったかね。最初、君が駈け回りカーテンを引き裂いたときと、二度目に、君がそれを静かに捜したときと」
「もちろん、最初にピンを捜したときです」
「いや、最初に、君がピンを捜したなどとはとんでもない。
君は、そのことは、考えてみもしなかった。君はただ、悩まんがために悩もうとしたにすぎない。
だが、二度目には、君は確かに捜した。
我々は みんな、それを認めた。
我々は理解したし、信じた、なぜならば、君の驚愕と惑乱とが、事実存在したからである。
君の、最初の捜索はわるかった、二度目のは、よかったのだ」
「まあ、わたくし、あの最初には、危うく自殺するところでした。」
「そんなことはどうでもいい。それは実際の捜索の邪魔をしたにすぎない。舞台では、触らんがために触ってはならないし、悩まんがために悩んではならない。『漠然と』行わんがために行ってはならない、常にある目的をもって行うのだ。」

エピソード3

我々の芸術では、諸君は、それを演じている、いついかなる瞬間でも、演ずるたびごとに、新たな発見をし、役を生きなければならない。
それが再創造される度毎に、それはあらためて生きなおされなければならない。

エピソード4

「ソーニャのしたことは。」
「わたくし?」
気の毒な少女はびっくりして座席から飛び上がった。「なにをしたのでしょう?」
「君は君のかわいらしい手や、かわいらしい脚や、全身を見せつけた」
「いやですわ!でも、わたくし、ちっとも知りませんでした!」
「それは深くしみ込んだ習慣の場合、いつもあることだ」
「なぜほめてくださったのですか?」
「君がきれいな手足をしていたからだ」
「では、そのどこがいけなかったのですか?」
「いけなかったのは、君が観衆に媚びて、カサリンを演じなかったことだ
君は、シェイクスピアが 「じゃじゃ馬ならし」 を書いたのは、ソーニャという学生が舞台から自分のかわいらしい脚を見せつけたり、ファンに媚びたりできるようにではなかったことを知っているだろう。
シェイクスピアは別の目的を抱いていた。
不幸にして、我々の芸術はしばしば一身の目的のために利用される。
きみは自分の美しさを誇るためにそれをやる。ほかの人は人気や、外面的成功を博したり、出世をしたりするためにそれをやる。
我々の職業においてはこういうことは普通の現象であるが、私は早速、それをやめてもらう。
「演劇では、役を演じることに専念し、役柄を逸脱しないように注意しましょう」ということですね。

もうひとつ大切なのは、「アイドルのイベントと本格的なお芝居は、目的が違う」ことに気づくこと。
イベントなどの寸劇だったら、ソーニャがしたような自分をアピールする行動はむしろ歓迎されたりするものね。
それに気がつけば、演劇とイベントの目的の違いに応じて、柔軟に演じ分けられるようになるよ。

エピソード5

私がかつて並木道に乳母車を押していくのを見かけた老婆の話をさせてもらおう。
乳母車の中にはカナリヤの籠がはいっていた。
多分、老婆は家へ運びやすいように持ち物を全部、乳母車の中へ入れてしまったのだろう。
しかし、私はそうとりたくなかったので、あわれな老婆は子も孫もなくしてしまって、残された唯一の生涯の伴侶というのが、このカナリヤなのだということに決めた。
だから老婆はついこの間まで、いまはなくしてしまった孫息子にしてやったように、カナリヤを並木道へ乗せてやってきているのだ。
こうなると、すべてが事実より遥かにおもしろく、演劇向きである

エピソード6

感情そのもののことは考えずに、感情を起こさせるものはなにか、なんであったか、それを研究することに心を向けなさい。
君たちは相手の言葉や思想を、その都度、あらためて受け入れることを学ばなければならない。
たとえ稽古や、公演でその台詞をたびたび繰り返して聞いたことがあっても、それを君たちは今日知るのでなければならない。
この接触は共演するたびごとにつくられなければならないものであって、これは莫大な集中した注意や、技術や、芸術的規律を必要とするものである。

エピソード7

行動そのものよりも一層重要なのは、その真実であり、我々のそれに対する信頼である。
マクベス夫人はその悲劇の頂点でなにに心を奪われていただろうか?手の血痕を洗い落とすという単純な身体的行為にである。
君たちは自分がリアルな感情をもたなければならないならば、こういう集中が必要なことを学ぶだろう。君たちは実生活においても幾多の由々しい情緒の瞬間が、なにか平凡な、自然な運動によってもたらされることを知るようになるだろう。
誰か君たちの親しい人の病気や臨終の際のいたましい瞬間を思い出してくれたまえ、末期の人の親友や細君はなにに心を奪われているだろう?
室内を静粛に保つことや、医者の命令を実行することや、体温を計ることや、湿布をすることにである。
およそこういう行動が死と闘うについて決定的な重要性をもつのだ。
我々芸術家は、小さな身体的運動でさえ、その情緒に対する影響によって大きな意味をうるという真理を会得しなければならない。
人間は基本的に、悲しいから泣くし、嬉しいから笑う。だけど、そうじゃないときもたくさんある。

日常生活でも、悲しい気持ちをグッとこらえて平気な顔をしていたりすることがあるもんね。
どうすればいいかは、人物の気持ちを深読みすることで見えてくるよ。いろいろ演技を学んでいこう。

エピソード8

俳優のやらなければならないことは、こう問うことだ。
自分は芝居の特殊な箇所に対する自分の役の態度を確信しているか?
自分は役の行動を本当に感得しているか?
いろいろな想像のディテールを変更したり増補したりすべきであるか?
ある俳優が、その舞台における能力を完全に所有しているものと仮定したまえ。彼はその構成部分を持ち役から逸脱することなく完璧に解剖することが出来るほどである。
やがて些少の誤差が生じる。
ただちに俳優はどの部分が狂っているかと調査する。彼は過失を発見しそれを訂正する。
しかし、その間中、彼が自分を観察している間も、彼はやすやすと持ち役を演じ続けることが出来る。
サルヴィニが言っている。『俳優は舞台で生活し、泣き、笑い、しかも、その間中、彼は自分の涙や笑いを監視している。この二重の機能、この生活と演技との均衡、それがこの芸術をつくるものである』

「自分を観察する、もう一人の自分を作ろう」ということですね。

エピソード9

「ワーニャ、君はどこかへ出かけようとしている。
汽車は二時に出る。もう一時だ。どうやって君は授業の終わる前に学校を抜け出すか。やってみたまえ。」
ワーニャは多種多様の芸当を試みたけれども、演出家は、まるでわざとのように、彼に対してなんの注意も払わなかった。
ワーニャはたゆまずに努力を続けた。
演出家は依然として彼を無視していた。
しかし、僕らはワーニャのすることを全てなるほどと思って、それに感服した。ワーニャはいつわりなく行動していたからだ。
ワーニャは椅子から床へ滑り落ちさえしたので、僕らはその誇張された演技を面白く思い笑った。
しかし、演出家は動かされなかった。
ワーニャは僕らをもっとひどく笑わせるために、なおもいろいろなことを考え出した。
ワーニャが誇張すればするほど僕らは大声で笑った。
僕らが喜ぶのに力を得て、彼は面白いことを思いついてはやってのけたので、僕らは笑い転げてしまった。
僕らが静まると演出家は尋ねた。
君たちは、いま起こったことが分かるか。
ワーニャの中心目標は、時間前に学校を抜け出すことであった。
最初は彼のすることは、その目的にかなっていた。ところが、観衆の笑いを耳にするやいなや、彼の目標は、どうやって見物人をよろこばせるかになってしまった。
どこにそんな筋が求められたであろう。それが、彼の邪道に陥った原因である。

エピソード10

経験と技術とに長けている演劇の初心者は最も邪道に陥りがちなものだ。
彼らはすぐに作為的な習慣を身につける。彼らが正常な人間的な状態をものにするならば、それは偶然である
なぜ、僕らは、たった一度しか人前で演じたことがないのに、そんなにすぐ作為的になることが出来るのですか
君は、最初の課業のとき、私が君に舞台で腰を掛けるように言うと、ただ腰を掛けるかわりに、君は誇張を始めたことを覚えているか。
そのとき君は叫んだものだ。『どうもおかしい!僕はたった一度しか舞台に立ったことはなく、そのほかは普通の生活をしてきたのに、自然にしているより気取っている方がやさしい
多くの俳優が、芝居の前に、その外観が自分の演ずる人物の外観に酷似するように衣装を着けメイキャップをするのだが、彼らは内部の準備という最も重要な部分を忘れるのだ。
なぜ彼らはその外観にそんなに格別の注意を払うのだろう。なぜ彼らは、その魂にメイキャップを施し衣装を着けないのだろう。

エピソード11

「もし私が君に、あの扉をしめてきてくれといったとしたら、いやかね?」
「扉をしめるのですか?しめますとも。」
ワーニャはいって、それをピシャリとやると、眼にもとまらぬうちに戻ってきた。
「それでは、扉をしめるということにはならない」演出家はいった。
「『しめる』、というからには、隙間風を防ぐとか、隣室の人々に我々の話していることが聞こえないとかするように、扉を閉めておくという願望をこめている。
君は理由を意に介さず、扉をドシンとぶつけたにすぎない。」
どんな理由で、登場人物が扉を閉めたのかを考えようということですね。

  1. 寝ている子を起こさないように扉を閉める。
  2. イライラして腹を立てながら扉を閉める。
  3. 悪者に追われて、命からがら逃げてきて扉を閉める。
登場人物が、今どんな気持ちで、どんな状況なのかを考えれば、扉の閉め方も変わるんだね。
これに気がつけば、人物のいろんな行動を演技で表現するのに応用できるよ。

メソッド演技とは?

スタニスラフスキーの影響を受けた、リー・ストラスバーグらアメリカの演劇陣によって、アメリカ・ニューヨークで確立・体系化された演劇理論です。

スタニスラフスキー理論は、「ロシア」

メソッド演技は、「アメリカ」 なんですね。

リー・ストラスバーグは 「グループ・シアター」 を結成。練習方法や俳優の演技テクニックに、スタニスラフスキー・システムを導入し、メソッド演技は大いに発展します。

しかし、ここで対立が起こります。

グループ・シアターのメンバーの1人、ステラ・アドラーは、スタニスラフスキー・システムの指導法を巡り、ストラスバーグと意見が対立。グループ・シアターは解散してしまいます。

ストラスバーグとアドラーの違いは、俳優の感情の引き出し方でした。

ストラスバーグは常に 「感情の記憶」 すなわち五感を使って俳優個人の過去の記憶を引き出す方法を提唱していました。

一方のアドラーは、俳優が文章から学び、想像した状況を信じることが出来れば、脚本にある感情が自然に表面化すると考えたのです。

果たしてどちらが正しいのか。

ステラ・アドラーは、パリで療養中のスタニスラフスキーと実際に会って質問し、教えを請いました。

スタニスラフスキーはアドラーを支持。

自分のやり方が正しいと確信したアドラーはグループシアターに報告。ストラスバーグが強調していた 「効果のある記憶」 の重要性を否定しました。

結果、グループ・シアターは解散しました。

だけど、その後・・・

リー・ストラスバーグは 「アクターズ・スタジオ」 の芸術監督に就任。

アドラーは 「ステラ・アドラー芸術学校」 を設立。

そしてアドラーと仲が良かった、サンフォード・マイズナーは 「ネイバーフッド・プレイハウス演劇学校」 を設立したのです。
ステラ・アドラーの教えには、このようなものがあります。
  • 「作品を演じている最中でも、自分の内側から感情を引き出せ」という演技法が流行した時代がありました。

    これによってアメリカの俳優は大きなダメージを負ったんです。俳優自身の体験は、ハムレットが体験することと同じではないのに。

    あなたもハムレットと同じく、デンマークの王子だと言うなら話は別よ。ハムレットのリアリティは、あなたという個人の中には存在しません。

    まず彼は王子だという状況があって、その中にハムレットの真実が存在する。

    彼は、生きるか死ぬかを決めようとします。彼の決断には王子という立場にふさわしい重みがあるべき。あなたが前に「誰をダンスに誘おうか、迷った」なんて優柔不断になった体験は、作品の規模に合いません。

    「自分自身の感情や体験こそ大事だ」という思い込みから抜け出せということよ。何かを見て、その体験を観客と分かち合えるようになってください。

    「自分の経験を参考に演じよう」と言ったって、出来る役は限られている。自分の内面を見つめて演技の選択肢や感情を引っ張り出すだけでは足りないんです。

    ストラスバーグ氏はそうしなさいって教えたかもしれないけれど、そのやり方には限界がある。

    偉大な劇作家が伝えたいことは、最高の名優の人生経験よりも大きい場合が多いのですから。

  • 演技とは、アクション、行動を演じること。行動はすべての基礎。

    人間の性格を考えても、どう演技すればいいのか答えは出ません。その人が何をするか知ることが、役作りの基本です。

    アクションを研究する時、あなたの前には三本の道があります。
  1. 「このアクションをやったことがあるだろうか?」と自分に尋ねる。
  2. 「このアクションをしている人を見たことがあるだろうか?」と自分に尋ねる。
    1 と、2 の答えが共にノーなら、
  3. 想像してやってみる。三番目が最も重要となります。

  • 特定のタイプを演じればいい、という時代は終わりました。
    19世紀までなら、決まりきった役だけを劇団で演じればよかった。劇団が求めるタイプに、あなたがフィットしてさえいればそれでよかった。あなたに似た人物だけを演じればよかった。

    それは演技と呼べない。

    自分とは違う人物を演じて、初めて演技をしたといえる。演劇の歴史を見ても、本人が本人の役を演じたことはないんです。

    演劇の世界では、あなたのままじゃ困るんですよ。あなたなりに役を演じてこそ俳優なんだから。

アクションという単語からは、「戦闘」「格闘」をイメージしてしまいますが…
アクション(action)とは、ラテン語の「actio」と言う単語が語源になっていて、「動作」「行動」「演技」などを意味します。
またこれは「actor:俳優:アクター」「actress:女優:アクトレス」「act:行為:アクト」などの語源でもあります。
現在の英単語として「action」と言えば、上記を内包する形で「行動」「動作」「活動」「効果」「作用」「所作」「演技」なども意味しています。

最後に出てきたマイズナーの教えには、このようなものがあります。
俳優になるな。想像上の状況の中に存在するものに感応する人間となれ。
演技をしようとするな。演技は自然にされるんだ。

せりふは一艘のカヌーのようだ。そして、カヌーの下を感情の川が流れる。せりふは川の上に浮かんでいる。
もし川の水が激しく流れているとしたら、言葉は急流の上のカヌーのように出ていく。すべては感情の川の流れ次第だ。せりふは感情の状態の上に乗っている。
この練習【感情準備】の目的は、感情の流れを自由に起こし、その上に言葉を浮かばせることだ。

いっておくことがある。せりふは君たちの手強い敵だ。

われわれはみんな二つの樽を内面に持っている。
最初の樽は、われわれの悩みからにじみ出た液体で満たされている。そのすぐ右側に二つ目の樽が置かれている。
浸透の作用で、最初の樽の悩みは二つ目の樽に浸出する。そして、だれも完全には理解できない奇跡によってそれらの液体は、絵を描いたり、作曲したり、文章を書いたりする能力、そして演技をする能力へと変形する。
したがって、われわれの才能は、本質的には変形したわれわれの悩みから出来上がっている。

私は、もっとも幸運で幸せな人はシェークスピアとベートーベンだと常に思ってきた。しかし、私がこのたとえ話を話した先生がいった。
『いや、いや、シェークスピアにはたくさんの悩みがあった。その一つは神経症だった。また、ベートーベンもそうだった』そして、彼はよく知られている彼らの悩みのいくつかを挙げていった。
この話から、二つの樽の間の浸透作用は、完全には働かないことがわかった。悩みの樽には、いつもいくらかの悩みが入っている。たとえどんなに才能の樽が満たされていようとも。
悩みは、才能へと移り変わるとき、背後にかすを残していく。人類の中で最も才能にめぐまれた人々のなかにさえ。
「グルーブ・シアター」
   主要メンバーの、その後。


リー・ストラスバーグ
  • 旧ソ連に生まれる。グループ・シアター解散後、48年からアメリカのアクターズ・スタジオの芸術監督を務める。グループ・シアター設立者のひとり。
ハロルド・クラーマン
  • アメリカの演劇批評家であり、演劇に関するいくつかの本の著者でもある。1940年に解散するまで、グループ・シアターの運営の責任者だった。60年代を通して多くの芝居を演出した。ステラ・アドラーの前夫。
ステラ・アドラー
  • アメリカの女優。グループ・シアターのメンバーのひとり。1947年、ニューヨークに自身の名を冠した演劇学校を設立した。
ロバート(ボビー)・ルイス
  • 1931年から40年までの間、グループ・シアターの俳優・演出家・演技教師だった。イエール大学で演出家および演劇科の准教授を務める。
サンフォード・マイズナー
  • グループ・シアターで、ハロルド・クラーマンと リー・ストラスバーグ、そしてスタニスラフスキーのもとで学んだステラ・アドラーを通して、メソッド演技を学ぶ。ネイバーフッド・プレイハウス・スクール・オブ・ザ・シアターを設立する。
★ ★ ★ ★
西洋の現代演劇の4大テクニックとは?

今まで紹介してきた、リー・ストラスバーグ。ステラ・アドラー。サンフォード・マイズナーに加えて・・・、ウタ・ハーゲン!

ウタ・ハーゲン テクニック と呼ばれています。

彼女の演技テクニックを紹介します。
  • 私は誰かと考える。
  • 現在の日時はいつかと考える。
  • 私が居る場所はどこかと考える。
  • 私の周りには何が居て、何が在るか考える。
  • 私に与えられた状況は何か考える。
  • 私と他の人物との関係を考える。
  • 私は今何がほしいのか考える。
  • 私が今乗り越えなければならない障害を考える。
  • 私がほしい物を手に入れるためにどんな行動をするか考える。
  • では、私は何をする。


いいものをたくさん吸収して、大きく成長してくださいね。
スタニスラフスキーと
アドラーのメソッド演技は
違う?

レインボーヴォイス 七色の声
オンチは直る?本当のオンチはめったにいない
ファンタジーのプロット!
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秘伝 シナリオ骨法十箇条
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