「秘伝 シナリオ骨法十箇条」です。

役作りのヒントに、ぜひご活用ください。
メソッド演技との関連性
役を演じることになったら、まず最初にしてほしいことがあります。それは、作家のメッセージを理解すること。脚本には 「これを世界に伝えたいんだ!」 という理想やアイデアが含まれている。それを読み取ってほしいんです。【ステラ・アドラー】

秘伝 シナリオ骨法十箇条
映画脚本家 笠原和夫
「骨法十箇条」 言うまでもないことだが、そんな条文が書かれた巻物があるわけではない。わたしが思い出すまま、あれこれ数え上げていったらちょうど十項目あったから、こう名付けたに過ぎない。古くさくなったかもしれないが、「観客から金を取れる映画」 の脚本を書くために必要な基本中の基本である。

骨法十箇条を無視したって映画はできるだろう。
また、骨法十箇条を金科玉条にして書いたって、いまの人が観れば、かったるい映画ができるだけかもしれない。

ただ、映画草創期から黄金時代にかけての撮影所で、脚本家や監督やプロデューサーたちによって、ああでもないこうでもないと訂正され、追加され、削除され、練り上げられた、経験と知恵の産物ではあり、まるっきり打ち捨ててしまうにはいささかモッタイナイ。

この「骨法十箇条」はわたしの発見でも知恵でもない。昭和28年に東映に入って以来、いろんな時と場所で、わたしが耳にした奇妙な言葉をまとめただけである。
いまの人たちだって、こうした骨法を押さえてこそ、逆手や新手や反則技も使えるというものではないか。
映画の基本は、やはり脚本である。
日本映画の父マキノ省三は、「一スジ、二ヌケ、三役者」と言って脚本の重要性を説いた。そして日本映画最後の大物プロデューサーである岡田茂東映相談役も (また俊藤浩滋氏も日下部五朗氏も)、脚本にだけはこまかく注意を払い、脚本家に敬意を表してくれたものだ。スジがきちんとできていない映画に、客はビタ一文も払ってくれないと熟知しているからである。
これから脚本家を目指す奇特な若者がいるとして、「まるっきり参考にならないとは限りませんよ。少なくとも歴史的遺産として重要です」という調子のいい編集者の慫慂(しょうよう)にしたがって、「映画芸術」誌掲載の旧稿を改めておくことにした。

さて。
「骨法十箇条」は脚本をいざ書き始めてから使うメソッドである。実際に原稿に向かって書き始めるのは、脚本家の仕事のうちで、じつは最終段階にすぎない。ここでは折角だから、「骨法十箇条」だけではなく、脚本に取り掛かる初っ端(しょっぱな)から順を追って述べていきたい。
大まかに言って、脚本には次のような行程がある。
  1. コンセプトの検討
  2. テーマの設定
  3. ハンティング(取材と資料蒐集)
  4. キャラクターの創造
  5. ストラクテャー(人物関係表)
  6. コンストラクション(事件の配列)
  7. プロット作り
以上、七項目をクリアしていって、脚本家は初めて原稿用紙に向かって書き出せるのである。もっとも、頭の中では始終、あっちを計算したり、こっちを捻(ひね)ったりしているから、必ずしも毎回この順番通りに成立するわけではない。

くれぐれも、いきなりプロット作り(ストーリー)に入らないことだ。
わたしの商売往来から言って、わざわざ回り道をしてみようという気を起こした方が、結果はいいようである。
急いで片づけて金を稼ごうって気になったら、その瞬間から迷路にはまってしまう。

回り道というのは、コンセプトやテーマを仲間と何度も話し合って確認し、モチーフに関する資料をよく読み、背景に使う土地に出かけたり、ひとに会ったりするという、地味でオーソドックスな道である。

だいたい失敗した映画というのは、プロデューサーも監督も脚本家もそれぞれが考えていることがマチマチで、すれ違っている場合が多い。すると、まとまりの悪い、狙いのぼやけた映画が出来上がってしまう。

映画の発想というのはイメージ勝負だが、イメージというのは、プロ同士が一緒に仕事していても、なかなか相手に伝わりにくいものなのだ。細かいところまで、八方手を尽くして、互いの意図するところを呑み込んで置かなくてはならない。

コンセプトを固め、テーマを押さえ、資料をあたる。
すなわち、番号で言えば 1.2.3 がとりわけ重要になってくる。
1.コンセプトの検討
コンセプト=戦略と呼んでもいい。
戦略というのは、一言でいえば映画の有りようを考えることである。映画をとりまく様々な状況、時世時節の流れを踏まえ、その中で、どのように映画を成功に導くのか―――このグランド・プランを設定するのが、脚本の最初の作業である。

自分自身のテーマのほかに、監督の個性との調和、主演助演の各俳優の見せ方、制作母体のカラー、時流のテンポ、そして興行価値の見通し等々、ストーリーを作る以前の難問は山ほどある。

簡単な例を挙げれば、大作の構えで大ヒット大入り満員を狙うのか、興行はそこそこの当たりで俳優の売り出しを狙うのか、興行はトントンでも批評家受けしてベストテン入りを狙うのか、はたまた新しい観客層の発掘を狙うか、従来の観客層に訴えるか、といったことだ。

そうしてヒットする映画とは、このコンセプトが効果を発揮した場合であって、決して目新しいストーリーのせいではない。ストーリーなどというものは、もう何十年も前に、考えられ得るものはすべて出尽くしたと、ハリウッドの誰かが言っている。

コンセプトが不十分で、映画の基点がしっかりしていないと、脚本でどんなに苦労したところで、人の目を惹く作品にはならない。
2.テーマの設定
コンセプトが確定したら、それに沿って、どういうメッセージを観客に伝えたいのか、自分の「観念」を固める。

言うまでもないが、この「観念」=テーマを直接、人物のセリフやモノローグ、ナレーションで表出するのは邪道で、脚本としては下の下である。テーマは、きちんと構成が組み立てられたドラマの中で、観客に以心伝心されていくべきものだ。そして、なるべく単純明快に観客に伝わるように、「観念」を整理し強靭なものにする必要がある。最も深刻な内容を、最も簡明な形で受け手(観客)に伝達するのが、あらゆる芸術の基本命題である。

テーマを観客に伝えるためには、多彩な大なり小なりの<事件>やエピソードを考案して、各人物がそれにどう照応するのか、を克明に描き分ける必要がある。
3.ハンティング(取材と資料蒐集)
コンセプトが固まり、テーマの方向も見えたら、次は脚本の具体化に向けて、可能な限りのデータを揃える。モデルとする土地や人物の調査に旅をすることをシナリオ・ハンティングと呼ぶが、その他、入手あるいは閲覧可能な文献もあつめて、裏付けの資料を獲得しなければならない。

このあたり、料理人がネタを仕込みに市場を駆け回って探す努力と何ら変りがない。仕込みのネタが悪かったり、新鮮なものでなければ、良い料理が出せず、店の評判が落ちるだけだ。取材・資料蒐集が成功するかどうかで、作品の運命は決せられるのである。

東映なんかは、「金がモッタイナイ」とシナリオ・ハンティングをさせない会社であった。たぶん、ゴネて無理やり取材旅行の金を出させたのはわたしが最初であろう。

その土地の空気を吸うだけで書くものが違ってくるのだから仕方ない。古い神社に寄って、石垣の裏に彫られた寄進者の名前を見るだけで、その土地の特徴ある名前がわかる。そんな細部を知ることで、ふと何かが見えてくることもあるのだから。また、方言でセリフを書く必要がある時は、その土地の古本屋で、代表的な方言を抜き出すのに使いやすい地方出版物を入手しておくのも後で大いに役立つだろう。

録音に頼るにせよ、メモを取るにせよ、必ず自室に戻ったらノートに整理し直さねばならない。そうすることで、取材の際には聞き流していた意外に重要なポイントが見つかったり、また取材相手の発言が前後で食い違っていることがわかったりして、そこから <行間を埋める創造> の端緒が掴(つか)めるのだ。

実際に自分の手で書き直した記録は頭の中にしっかりと組み込まれて、いつでも発想の素として活用できるようになる。また資料を表にまとめておくと、書いてる時に疑問が出てきたり、行き詰まった時にそれを見ると、新たな発想が出てきたり、転換ができるものなのだ。

歴史的な素材を扱う場合などは、当時あったことを同時並行で書くことが多く、その際、年譜があれば、この事項をはずして、別のものを使おうということも可能になる。

創作というものは本来、そういうものであって、決して夢みたいな話を原稿に移すことではないのだ。
メソッド演技との関連性
  • 演技は、なんとなく漠然とやるものではありません。あなたの周囲にあるもの全部が、あなたにとってリアルでなくてはならない。

    舞台に椅子があるなら、私は椅子を意識します。私が演じる人物にとって、その椅子は何なのか?舞台に存在するものにはすべて、意味がある。

    たったひとつの椅子が作品のテーマを表すこともある。
    エドワード・オールビーの『ベッシー・スミスの死』がそう。ベッシ―の父親は家の前で、ぼろぼろの籐椅子に座っています。

    この椅子こそ、父親の姿そのもの。
    「お前さん、どうしたんだい?昔はピカピカだったのに、ささくれちまったね」とでも言いそうな椅子。

    ベッシー・スミスはブルース歌手でした。自動車事故で重傷を負い、亡くなった実在の歌手。彼女は助かったかもしれない。

    なのに病院は手当てを拒否しました。

    ベッシーが黒人だったからです。この戯曲は偉大なアーティストが人種差別のために死に至る、死に至らせる社会を描いた作品です。

    ベッシー・スミス本人は登場しませんが、彼女をめぐる人種主義社会をオールビーは詳しく描いています。

    籐の椅子に座った父親は、心を憎しみでいっぱいにしている。娘を憎み、自分自身を憎み、黒人すべてを憎みます。自分に会ってくれない市長を憎みます。南部において人種間が断絶し、揺らぐ様子を象徴する存在です。そして、彼のささくれた籐椅子が、作品全体を集約しているのです。

    その椅子がどんな椅子かわからなければ、わかっているふりをして演技することになります。俳優にとって、これは最悪。脚本の意味がわからないまま演じるのも最悪。完璧に理解しましょう。

    脚本に慣れてしまう前に、細かいところまではっきりわかるまで読み込む。脚本が俳優に何を要求しているのか、理解しなさい。「自分でもよくわからない」 のに、どうやって他人に伝えるの?それっぽい芝居をするだけで、何も伝わらない。最悪でしょう?

    俳優は嘘が上手。どんなふうに見せかければいいか、知っている。でも、まわりを嘘でかためちゃダメ。あなたにとって真実でなければ。真実に意識を向けることができれば、嘘をつかなくてすみます。【ステラ・アドラー】

データを頭にしっかりたたき込んでおいて、そのデータを駆使しながら話を積み上げていくのが本当の創作だと、わたしは思う。わたしは映画会社から 「期限を守らない資料偏執狂のライター」 と目されてきたが、緻密かつ克明に、粘り強く蒐集され整理された資料は、作家の最大の財産なのだ。

ただ、これは声を大にして忠告しておくが、取材・資料蒐集は大いにするべきだけれども、要諦はその集めた資料の取捨選択である。資料を読み込んでいくと、必ず資料のすき間が見えてくる。資料のすき間をこちらの創造(想像)力で埋めていきつつ、捨てる材料は思い切りよく、捨てなければならない。
4.キャラクターの創造
5.ストラクチャー(人物関係表)
この2つは幾分重なっている。おおざっぱに言えば、キャラクター間のアヤをつけるのがストラクチャーである。

1から3までの段取りを着実に踏んでくれば、もう作者の頭の中では、おおよそのストーリーが見えているものだ。しかし、ここですぐストーリーの曲折に腐心すると、人物がストーリーの都合のいいように作られてしまい、引っ掛かりのないノッペラボーなドラマに堕してしまう。

これを避けるためにキャラクターをしっかり立てなければならない。そこでまず、主人公や2,3のメインの人物の履歴書を作る。出身地や家柄、生家の家族事情、学歴、職歴、性格、趣味、特技・・・。併せて、その人物が経てきた時代の事件、世相、流行、ついでに流行歌やヒット商品など、いかなる興信所も顔負けの、できるだけ緻密かつ詳細な履歴書を作成する。この履歴書があれば、脚本執筆の途中で迷いや停滞が生じたとしても、人物の進むべき道はおのずから明らかになっていく。
メソッド演技との関連性
  • 作品の中で、その人物としての今を生きるには、過去をしっかり作ること。役づくりをするときは、まず最初に人物の過去を想像しなさい。
  • 人物を演じるには、その人物の過去をじゅうぶんに把握すること。日々の生活はどんなふうか?家族の歴史、受けてきた教育は?仕事の経験、個人的な人間関係は?そうしたことをまず考えて準備します。【ステラ・アドラー】
しかし、人間は多面体の存在であり、ガチガチに固めた履歴書にのみ捉(とら)われるのも考えものだ。人間は、ジキル博士とハイド氏のような全く違う顔を見せる場合もあるし、予想外の行動に走る時もある。こうしたことはドラマに新しい緊張を生んで、弾みがついてくるので、そうしたフレキシブルな把握の仕方が必要である。だが、幅のある人物の把握も、最初に履歴書がしっかり作られていてこそ可能になる。

出来上がったキャラクター群を踏まえて、ストラクチャー作りに移っていく。

ドラマは葛藤であり、葛藤とは誰かと誰かの諍(いさか)いである。この諍いがどこから始まり、どう変化し、どのような形で終わるのか、そしてこのメインの人物たちの諍いに、脇の人物たちはどう関わり、どんな影響を与えたのか。またサブ・ストーリーはどう関連しながら進行するのか―――こうしたことを配慮しつつ、各キャラクター間の関係を掌握していくのがストラクチャー作りである。
メソッド演技との関連性
  • 俳優を目指すなら、人間的な葛藤を見つけて下さい。脚本に表現されているはずの葛藤を読み取れず、セリフだけを言っても劇は成り立ちません。何も伝わりません。【ステラ・アドラー】
ストラクチャー(構築、の意)が弱いと、ドラマを引っ張っていくべきサスペンス(吊り上げていく、の意)が効かず、ダラダラした印象になる。ストラクチャーはなるべく複雑で多彩に組まれた方がドラマを面白くするが、当然のことながら、構築された人物関係は終局においてメインの葛藤の結末にきちんと収斂(しゅうれん)されていかねばならない。「出しっぱなし」ではいけない。
メソッド演技との関連性
  • 人物のバックグラウンドを大きく深めても、いざ演技となると前面に出てこないかもしれません。でも、理由づけや過去の経験をつきつめて考えることは必要です。結局人間の言葉って、過去の蓄積から出てくるはずでしょう?人物の歴史づくりに大きく投資するほど、見返りも大きい。人物の理解が深まるし、演技にもリアリティが生まれる。基礎を固めてから、相手に対する見方を決めましょう。それから相手と対立しましょう。【ステラ・アドラー】
6.コンストラクション(事件の配列)
ストラクチャーが横の人間関係とすれば、今度は縦の流れを組み立てていく。要するにコンストラクションは、思いついた大小の事件を、1から5までのデータを参考に、順を追って並べていく作業だ。

この並べ方は、俗にいう「山あり、谷あり」のリズムを心がければいい。もう少し細かく言えば、ドラマを構成上、「起・承・転・結」の四区分に分けて組み、それぞれの区分の中でヤマ場やクライシス(危機)等のリズムを刻んでいく。このリズムは「序・破・急」になっていなくてはならず、絶えず変化と上昇に留意する。そして何より重要なのは、次第に「結」、つまりラストに向かってテンションが高揚するように運ぶことである。

また、どういう芝居を見せるかを留意しなくてはならない。主役が歌を唄うでも、この役者に得意の啖呵(たんか)を切らせるでも、そこから逆算して話を膨らませるのがいい。

4,5,6の各項目、すなわちキャラクターを立て、ストラクチャーを作り、コンストラクションを組み立てるに際しては、いろんな型や手はずを頭に入れておくのが最大の武器となる。

東映の宣伝部員だったわたしが、「脚本を書いていきたいんです」と打ち明けた時、マキノ光雄専務が、
「なら、君、勉強しろよ。三遊亭円朝全集と、『仮名手本忠臣蔵』と新喜劇(曾我廼家五郎劇集)を買って読め」
と教えてくれたのは、このことを指す。
後年、映画を書き始めてからのことだが、戦前の「キネマ旬報」を一揃い買い込んで、当時の映画の粗筋を書き写し、分類・分析したこともある。
7.プロット作り
コンストラクションを基に、ついにプロット作りに入る。
プロットはストーリーのロジックを読み手に正確に伝えるためのもので、余計な情緒的修飾は不要で、何がどうして、何がこうなっただけを書けばいいのだから、通常、ペラ(200字詰め原稿用紙)十枚に収める。

この枚数に収まらない場合は、作者がストーリーを把握していないか、あるいはストーリーに冗漫な部分があるということで、逆に十枚に達しない場合は、ドラマの組み方が浅い、話が足りないということがわかる。

この作業は、ドラマ全体を把握するために不可欠なものだ。つい書き手が見失いそうになる、「コンセプトは何か?テーマは何だったか?ストーリーの種類は何か?ヤマ場の盛り上げの手段はどうか?」といったことを大掴みに再確認できる。思わぬ落とし穴を見つけることもあるだろう。

そして書き上げたプロットはなるべく多くの人に読んでもらおう。そして、彼らの意見を大事にすることだ。自分の書いたドラマに対して客観的な視点を持つことは、当の作品の手直しだけでなく、次回作を書く際にも役立つ、明晰な判断力に繋がるのだから。
そしていよいよ脚本に取り掛かるわけだが、ここでも急いではいけない。

プロットまでの行程は冷静な頭でいなければならないけれど、ここから先は、冷静なままでは一行も書けやしない。ドラマというのは正気の沙汰の人物の話ではない。こっちの頭も狂ってこなければ、セリフ一本、らしくはかけない。

だからブラブラしはじめる。来る日も来る日も酒くらって寝ることを続けたりもする。

さあ、ほどよく狂ってきたと判断したら、書き始める。一気呵成に、筆の赴くまま、自分の好きなように、ペラ70枚 (映画の脚本はだいたい230枚ほどが目安だ) まで書いてみる。

わたしは70枚まで書くと、頭で考えていたことのボロも見えてくるし、そこで一旦休む (似たことをする同業者は多いようである)。

二日ほど休んでから机の前に戻ってくると、それまで書いた70枚を読み返して、おもむろにゴミ箱に捨てて、また冒頭から書き始める。

人間の頭というのは不思議なもので、同じファースト・シーンから書き始めても、再び70枚になるころには相当変わってくる。頭が切り替わり、内容が良くなってくる。えいやっと、今度はラスト・シーンまで馬車馬のように書く。

ただラスト近くに至って、高熱を発することがある。
これは、「ドラマ熱」の作用と思われる。自分が構想し構築したドラマの重さや激しさに、自身が耐えられなくなって、生理に変調を来すのである。

だが、ドラマのクライマックスというのは、作者自身が非日常の熱に浮かされるような状態にならないと、イメージがすべて嘘八百に見えてきて、一言半句も書けなくなってしまう。その<熱>が度を超すと、頭の中で内攻するだけでは止まらず、肉体にも取りつくのだ。

<熱>が取りつくほどになれば、もうセリフもどんどん出てくる。
これも 「ドラマ熱」 のおかげだろう。ドラマを書き進めるうちに、人物の感情になって突発的に出てくるセリフが一番で、前もって用意されたセリフというものはだいたいにおいて良くない。

何もないところからドラマを生み出すというのは、それほど恐ろしい作業なのである。

この原稿用紙の桝目を埋める段階で、ようやく 「骨法十箇条」 の出番がやってくる。

さてその骨法というやつ―――これはパターンではない。パターンは時勢に沿って止揚し、あるいは変革しなければならないものだが、「骨法」は千古不易である。天の岩戸の前で踊る天のうずめの舞も「ターミネーター」のシュワルツェネッガーの迫力も、おなじ骨法に沿っている。
骨法その一。「コロガリ」
転がり、である。英語で言えばサスペンス。これからなにが始まるかと客の胸をワクワクさせ、引っ張り出された糸が縺(もつ)れたりほぐれたり絡んだりして、最初は初めの糸にキチッと収斂されて大空高く凧が舞い上がる、という展開の妙をいう。

「コロガリ」の一番大事な点はトッパナの糸の引き出し方にある。つまり、なんの話か、ということを端的に示唆しなければならない。不自然な展開や御都合主義による話の運び、あるいは脇の筋に深入りした場合は「コロガリが悪い」と評される。

また、立て板に水のように本筋だけが先へ先へと進んでしまうのは「コロガリ過ぎる」とクサされることになる。「コロガリ」は、観客との間で適当に駆け引きをしながら、意表を突くカードを次々に見せていくのを最良とする。

さらに大事なのは「出」のテンポである。すなわちドラマのファースト・シーンをどのように印象強く提示するかは、その後の「コロガリ」を観客に納得させるための重要なファクターとなる。

また、「役」の「出」ということも一考しなくてはいけない。そのドラマに初めて登場する主役、および何人かの主要人物は、それぞれの最初のシーンの芝居が引き立つように書かねばならないのである。高名な某俳優など、「出」が冴えないと、その時点で脚本を読むのをやめる、つまり出演を断るそうである。
骨法その二。「カセ」
主人公に背負わされた運命、宿命といったものである。「コロガリ」が主人公のアクティブな面を強調するものであるのに比べて、「カセ」はマイナスに作用するファクターとなる。

分かりやすい例でいえば、泉鏡花の『義血侠血』のヒロイン滝の白糸が苦学生村越欣弥に寄せる恋慕である。その恋慕ゆえに白糸は罪を犯し、それを裁くのは学業を終えて検事となった欣弥その人であった。この白糸の身分違いの恋(欣弥は当時の特権階級たる士族の出)が「カセ」であり、そこから生ずる波乱が「アヤ」である。

適切な「カセ」が設定され、「アヤ」が効果的に効いたドラマは、文句なしに面白い。ドラマの楽しさは畢竟(ひっきょう)、「アヤ」にあるのだが、「アヤ」を生むのは適切な「カセ」であることを忘れてはいけない。ただし、技術的に一番難しいのは、この「カセ」である。「カセ」が凡庸だと、「アヤ」もちゃちなパターン・ドラマに終わってしまう。ビリー・ワイルダーの「サンセット大通り」は、この「カセ」が巧みに効いて、主人公を追い詰めていった。
骨法その三。「オタカラ」
往年の名活劇「丹下左膳」の中で、敵味方の間を往ったり来たりする「こけ猿の壺」を指す。歌舞伎においても、御家重代の宝剣の行方をめぐって劇が進行する、なんて例は多々ある。主人公にとって、なにものにも代え難く守るべき物(または、獲得すべき物)であり、主人公に対抗する側はそうさせじとする、葛藤の具体的な核のことである。

サッカーのボールを思えばいい。これが絶えず取ったり奪われたりすることで、多彩に錯綜するドラマの核心が簡潔明快に観客に理解される。とりわけアクション・ドラマの場合には「オタカラ」は必須である。
骨法その四。「カタキ」
敵役のことである。前条の「オタカラ」を奪おうとする側の者である。メロドラマにおける「恋(色)敵」などもこれに当たる。

ただし、一目見てすぐ<悪>だとわかるような「カタキ」は、時代劇ならともかく、現代劇では浮いてしまうだろう。内面的なこと、トラウマや劣等感、ファザー・コンプレックスなど、内部から主人公の心を侵害するものでも「カタキ」になりえる。
骨法その五。「サンボウ」
主君尾田春長(織田信長)からさんざん屈辱を受けた武智光秀(明智光秀)が、主命によって高松城水攻めの真柴久吉(羽柴秀吉)の援軍として出陣する際、首途の杯を前にして、不意に三方を逆さに打ち返し、「敵は本能寺(信長の宿舎)にあり!」と叫ぶ場面(『絵本太功記』)に由来する。「正念場」ともいう。ドラマを人体に見立てた場合、その目をまさに画(か)きこむところである。

進退ギリギリの瀬戸際に立った主人公がその性根をみせて、運命(宿命)に立ち向かう決意を示す地点であり、これがないと、そこから先のドラマは視界ゼロの飛行になって、どこに着くやら観客には見当がつかなくなってしまう。複雑多彩に膨れたドラマの中心部でこの「サンボウ」の芝居をつけることで、ドラマがどちらを目指しているのかを観客に気づかせることができる。
骨法その六。「ヤブレ」
破、乱調である。どんなスーパーマンでも、一度は失敗やら危機やら落ち目に出くわさないと、観客からみて存在感が希薄になるものだ。失意の主人公がボロボロになって酒に溺れたり暴れたりする芝居は、役者にとってもやり甲斐のある見せ場となる(主演スターの持ち味によっては、綺麗事で済ませる場合もあるが)。
骨法その七。「オリン」
ヴァイオリンのことである。むかし「母もの映画」というヒット路線の映画が多産されていた頃、母と子の別れの場面にはヴァイオリンを掻き鳴らして観客の涙を誘ったものだった。それで、感動的な場面のことを「オリンをコスる」と呼ぶようになった。「オリン」の設定は、「ヤブレ」のあと、次の「ヤマ」の一歩前あたりが適当であろうか。
骨法その八。「ヤマ」
俗にヤマ場、見せ場という。クライマックスである。ここでは本筋、脇筋を含めたあらゆるドラマ要素が集結し、人物たちは最大限に感情を激発させ、衝突し、格闘し、一代修羅場を呈することになる。

いわば「ヤマ」は観客が抑制してきた興奮の発酵を、ここぞとばかりに空に向けて一気に解き放つもので、何より作者自身がまず感動し、我を忘れるようなボルテージの高い場面にしなくてはならない。
骨法その九。「オチ」
締めくくり、ラスト・シーンである。
オチには、観客の予測と期待通りに終わる場合と、観客の予測に反しながらも、期待は満たして終息する場合の二種類がある。ミステリーのラストはたいていが後者で、メロドラマは前者の場合が多いだろう。予測できて期待はずれ、予測できなくて期待も満たされない、そんなオチが厳禁であることは言うまでもない。

ラスト・シーンは、そのドラマが装うさまざまな衣裳の中で、もっとも華やかで美しく、高貴な香りを湛えた百万ドルの衣裳でなくてはならない。作者は、ここでは思い切り楽しみつつ、細心で丁寧な気遣いを持って書き上げなくてはいけない。
骨法その十。「オダイモク」
つまり、お題目。テーマである。
書き始める前に定めたテーマ(前述の「2」にあたる)と、こうして実際にドラマを書き進めてきた処で湧き上がってくるテーマとの間に、差異が生ずる場合がある。そんな時は、当初のテーマは観念的なものとして捨てた方が得策だろう。ドラマを書くことを通して掴んだテーマの方が血が通っているものだ。

そして脚本を書き上げたところで、さて、自分が観客に伝えようとしたテーマは十分に示されただろうかと、もう一度「オダイモク」を唱え直して検証することが肝要である。

お題目はハッキリ唱えなきゃ宗旨が分からない。宗旨が分からなければ説教したって無駄である。

お題目をハッキリ唱えるには御本尊さまに正対しなければならない。つまり思想なり情念なり美意識なりが向かってゆくもの、ターゲットがキチンと捉えられていなければ、テーマはテーマとして成り立たない。一言で言えば、「志」がなければならない。

映画は、どんな娯楽作品であろうとも、志をもって創るものだ。わたしはそういう世界で今日まで生きてきた。

志なんて言うとどうも人生訓話みたいでよろしくないが、「切実なもの」と呼び換えてもいい。

むかしの映画は、やっつけのパターンものを除けば、どの映画にも「切実なもの」が内容に含まれていた。近頃の映画は(こういう、むかし⇔近頃の二分法は年寄りの繰言めくので嫌いだけれど)、テレビの影響だろうが、場当たりの小才ばかりではないか? 笑わせるため、ハラハラさせるため、目立たせるためだけのものばかりになっている。観終わったら、「ナーンだ」というものばかりだ。

それじゃいけない―――とは言わないけれど、笑わせるにしろハラハラさせるにしろ、その中にひとつ「切実なもの」が貫通してなければ、観ている側の腹は一杯にならない。二度目になると莫迦にしだして、三度目はもう観に行かない。

映像に凝ってみても、映像というのは本当は観客の心の中で結ばれるものをいう筈であり、やたら画面をいじくり回せばいいってものでは毛頭ない。目に見えてこない、画面に映っていない映像をキチッと作り出すのが、作家の腕であり心意気というものではなかったか。それを忘れたままでいると、映画はテレビに敗れ、マンガに敗れ、ゲームに敗れ、ついには存在価値を失うだろう。

では「切実なもの」とは何か、となるが、こればかりはいかなる骨法にも見当たらない。作家一人ひとりが、深夜ひそかに自分の胸に訊いてみるしかないものである。

以上で「骨法十箇条」の解説は終わる。
メソッド演技との関連性
  • あなたが心の目で見て描いたこと。それらは全部あなたのものです。
    戯曲を読んでも、あなたが使うであろうテーブルクロスのことまで、ト書きには書かれない。

    それを想像して作り出すのはあなたの仕事。

    おそらく脚本には 「テーブルクロス」 とだけ書かれているでしょう。それがどれぐらい古いか、どんな皺があるか、どれぐらい擦り切れているか、新しいか、糊づけされてパリッとしているか、決めるのはあなた。劇作家の仕事は 「テーブルクロスがある」 と示すところまでです。イマジネーションを使い、それに生命を吹き込むのは俳優の仕事です。

    劇作家が 「よい天気の日」 と書いているなら、あなたは 「空は青い。ふわふわした白い雲がかかっている。鳥が飛んでいる」 というようにイメージを描きましょう。天気がいいことに対して何を見出すかは、あなたの選択次第。

    脚本には、田舎道の細かい描写もありません。「田舎道を歩いていたんだ」 というセリフだけが書かれている。となると、あなたは自分自身で 「赤茶色の土で、埃っぽかったなあ。道の両側にはトウモロコシ畑があった」 というように、ディテールを想像しましょう。

    演技をいきいきさせるには、事実だけを見ていてはだめ。ひとつひとつの物に生命があるんだ、とあなたが気づかなきゃいけない。気づかなければ、どんな事実だって死んでいるも同然。劇が描く世界に生命を吹き込み、魔法を見せて下さい。生命あるものを観客に見せましょう。【ステラ・アドラー】
アメリカ映画が日本はもちろん、ついに世界中を制覇したのは、彼らがつくる作品にはどれにも通俗的な骨法がキチンと仕込まれているからだ。だから大衆の支持を受けるのである。

脚本のみならず、小説、絵画、音楽、すべて芸術と名のつくものは、丹念な調査と緻密な計算の末に、一見無造作にも見える一行の文、一節の音、一筋の線を生み出すのである。作為がないのが今ふうだと称して、雑駁(ざつばく)な人間が雑駁なまま放りだしたものは、それこそ無造作どころか下劣な作為そのものである。

運、とか、才能、といったものは自分自身ではどうにもならない。唯一、武器として持てるのは、「忍耐」のみだ。脚本家は「忍耐」を売り物とする職業である、というのが、わたしの40年近くの経験から得た結論である。

オリジナル・シナリオの執筆で、これまで述べてきたような段取りをきちんと守った場合、最速でも半年はかかるだろう。根気強く情熱を燃焼させ続けられる者のみが、われわれの仲間となる。

最後に、新しくやって来る仲間のために、秘訣を、蛇足として掲げておこう。
絶対に直しの注文は断るな
プロとアマの差は直しの注文に応じられるか否かにある。
かつて、わたしのところにも習作をもって弟子入り志願してくる若者がずいぶんいたが、一読して、直して来いと言うと、まず、直して来ることはなく、そこでもってご縁が切れてしまうこと、しばしばであった。しかし、直しができない人間は絶対にプロにはなれない。
確かに監督なり、プロデューサーなりの意見を取り入れて直すということは、恐ろしく辛いことである。もちろん、直して脚本が悪くなってしまうこともあるが、概して、経験のあるプロデューサーや監督ならば、みんな、そこそこのことは分かっているわけだから、そう間違ったことは言わないものだ。
おかしい、こんなことでいいのか、と思うことは、当然あるが、そう思いながらも直してみると、案外、映画が出来てから初めて、その理由がわかるということがある。
直しの注文に応じられず、短気を起こして、原稿を破いてしまったら、脚本家はそこでオシマイである。
脚本家に一番必要なのは、そこを我慢して直す忍耐力なのであり、この忍耐力こそが、脚本のプロであることの絶対条件である。
二枚腰を持て
脚本を書くうえで、自分のカラーを出すことは、その時の運と腕次第であるが、カラーを出すにも、それなりの知恵が必要だ。
概して、今の若い人は、最初から自分のカラーをプロデューサーや監督に押し付けて真正面から衝突してしまい、潰されてしまうことが多い。しかし、正面からぶつかる前に、裏側から情報を探るなり、相手の性格を読み取るぐらいのことは、やって欲しい。
そして、まず、最初は自分がやりたいことを言ってみる。向こうが渋い顔をしたならば、その時には相手の言うことを全面的に聞く。
要するに二枚腰、三枚腰で交渉するのだ。そういう、押し引きの挙句、土俵際で勝負をかける。
書き続けること
シナリオライターというのは、いうなれば航空機のパイロットみたいなものである。航空機の世界の技術は日進月歩で、毎日毎日飛んでいないと操縦の方法が分からなくなる。変化に対応していくためには、毎日、操縦桿を握っていなければならない。
シナリオもそれと同じで、このシーンの次はこうすればいいといった技術的なことは分かっても、感性的にこれではダメだということがある。常に現実社会と接触して、現場で切磋琢磨していないと、そういう感性は劣化してしまう。だからシナリオというのは、一遍離れたら、もう書けないものだと思う。
一番大切なことは
骨法などに捉われて、自分の「切実なもの」を衰弱させてはならない。
わたしも駆け出し時代は、二、三日徹夜して一気に一本仕上げたものである。骨法なんて、まだ考えもしなかった、知りもしなかった。それでちゃんと映画になったし、商売にもなった。その中で腕も磨かれたし、感性も鋭くなったと思う。若い人はガムシャラにどんどん書くことである。
これだけ映画もテレビもその他もあって、映像の氾濫している時代なのだから、誰だって映像のおおまかな流れ具合は頭に入っているだろう。書くための予備知識はそれで充分。あとはただ書くことだ。
大事にしなくていけないのは骨法などではない。体の内側から盛り上がってくる熱気と、そして心の奥底に沈んでいる黒い錘(おも)りである。
映画脚本家 笠原和夫
メソッド演技との関連性
  • 脚本を 「他人が書いた言葉」 のままで演じてはいけない。解釈して自分の言葉にしなさい。俳優が意味を与えない限り、作家が書いたセリフは意味を持たない。【ステラ・アドラー】

ひばり映画と時代劇
スタニスラフスキー理論・メソッド演技と、「ひばり映画と時代劇」は真逆の考え方だけど・・・
否定するのではなく知識として蓄えることで、いざという時に使える演技の引き出しを増やしましょう。
笠原
美空ひばりというのは一枚看板でもって大スクリーンを支えられるんだよ。ひばりがアップでパっとスクリーンに出てくると、全体が明るくなってきちゃって、もうストーリーなんてどうでもいいみたいなね。ひばりの顔さえ見ていればいいんだという、そういうオーラが出ているわけですよ。だから、そのオーラをどうやって見せていくかということであって、作品がどうのこうのとか、どういうストーリーで、ということじゃないんだよね。ああいう役者というのは、どういう内容の芝居を、どういうふうに演じるということではなくて、その出方だとか、その時の衣裳だとか、その前後のメリハリとか、そういう中でパっと出てきた時に、パっとオーラを発揮する。そこがひばりものをやる時のおもしろさというかね。
荒井
それは例えば『いろは若衆花駕籠峠』でいうと、ひばりが男の姿になったり、芸者になったりしますよね。で、男の姿でいる時、道中相手の里見浩太郎が裸になると目をつむって赤くなる。そういう、ひばりだからこそ成立するシチュエーションをつくるということですか?
笠原
そうそう。
荒井
で、駕籠かきに男装のひばりが絡まれて「勝負しよう」ということになるんだけども、博奕で勝負するのかと思ったら、これが刺青の見せっこで、本当は女だからそれができないと。そういうのはもう、ひばりがやるということのためだけにつくったシチュエーションですよね。
笠原
そういう部分的な見せ方とかに、一番腐心するわけであってね。例えば、八百屋お七が、最後に半鐘を鳴らすということになると、その時にはどういう衣裳でもって、どういうフリでやらせたいとかね。で、こっちもいろいろとアイデアを出すわけであって・・・。だからストーリーなんてどうでもいいんだよ。そんなの、いくらでも変えられるんだから。
当時の東映の役者さんたちにはそういうオーラみたいなものがあってね。右太さん(市川右太衛門)もそうだったしね。右太さんが、旗本退屈男で「この傷は」とかでもってワッハッハッハなんて笑うと、あとはどうでもよくなっちゃってね(笑)。それは千恵さん(片岡千恵蔵)もそうだし、錦之助もそうだったし。そういうオーラを我々も楽しみながら最大限にお客さんに見せていこうと。大きなスクリーンにオーラをパっと華やかに発散させる―――それがエンターテインメントの楽しいところであってね。しかも、長年、ひばりものをやっている現場のプロデューサーや監督がいるわけでしょ。そういう人はよく知っているんだよ、ここをこうやって押していけばオーラが出るということを。
オーラというのはアグレッシブに見せる場合と、受けの芝居で見せる場合があるんですよ。例えば千恵さんというのは、どちらかというと受けの芝居で見せる人ですよね。右太さんの場合はアグレッシブにいくところにオーラが生まれるという・・・。
これは役者さんの質によるんですけどね、ひばりは本質的にはツッコミじゃなくてボケのほうなんですよ。受けなんです。だから、周りからガンガンやられている時に、「何よ!」なんて開き直るとオーラを発散させるというタイプなんで、どちらかというと受け身のほうを重視するような形になりやすいんですね。
糸圭
笠原さんのひばり映画を見てると、当時、ひばりが国民的人気を博していたということはかろうじてわかるような気もするんですけど、どうしてあれだけの人気があったのか、いまひとつわからないんですね。どういう人気なのか・・・もちろん、オーラということなんでしょうし、オーラなんて説明できるもんじゃないんでしょうけど。
笠原
単純にいって、オーラというのは自信なんですよね。庶民たちは、自信というか、何か揺るぎない輝きみたいなものを求めてるわけでしょ。だから、当時、お侍にしてもガンマンにしても、主人公が最後に死んじゃいましたなんていう映画は誰も見なかったでしょ。つまり強いわけで、それは自信なわけでしょ?
糸圭
確かに映画を見ても、ひばりというのはエラそうなしゃべり方をしてるんですよね(笑)。もう、小さい時からああいうしゃべり方をしてたんでしょうし。
笠原
つまり、庶民にはそれができなかったわけだから。しょっちゅう上役の顔を見たり、同僚の顔を見ながらしゃべっているわけだから。そのできないことをスターはやるわけですよ。
だから山村聰さんが『風流深川唄』の演出の時に言ってたんですけどね、「笠原君ね、主役と脇というのは格段に違うんだ」と。山村さんは、何かの舞台で、どこかの大店の若旦那の役をやった時に、冬に火鉢にあたるという演技があって、なるべくリアルにやろうと寒そうに肩を縮めてやったんだと。そうしたら柳永二郎だったかな、柳さんに「君、それは違う」と。「君は主役なんだ」と。「主役はリアルにやっちゃいけない。お客に受けるような見せ方をしろ」と言われたと言うんですね。寒いという設定でも、ウソになってもいいから堂々として華やかなところを出すといった見せ方をしないと主役には見えない、あるいは主役の芝居に見えないということを言われて、それから以後、主役と脇の芝居のあり方を変えたと言ってましたけどね。オーラというのはそういうことであってね。
糸圭
のちに荒井は薬師丸ひろ子主演ということで『Wの悲劇』(昭和59年 澤井信一郎監督)を書いたわけだけど、薬師丸ひろ子にしろ、三田佳子にしろ、ひばりのオーラとはかなり違うものでしょ?もちろん時代が違ってきてるわけだけども。
荒井
笠原さんがやってきたスター映画と比べると、僕たちが角川映画でやったのは等身大という逆手を使ったわけでね。ある意味ではズルい手で、アイドルを等身大に持っていくと。
笠原
ああ、なるほどね。それで成功したんだろうな。
荒井
薬師丸本人は、今は『Wの悲劇』が一番気に入ってると言ってるみたいだけど、当時はイヤがってて・・・。こんな、人を裏切って這い上がるような女の子は私は嫌いだと。
糸圭
今は普通の市民の子弟がタレントになってるわけですけど、昔のスターが出てくる階級と、今のタレントが出てくる階級というのは違うんじゃないでしょうか。その頃、普通の市民の子弟が映画界でスターになるということは・・・。
笠原
なかったですね。
荒井
歌舞伎系ですよね。この頃は、役者が歌舞伎から映画に来る時代ですよね。
笠原
そうでしたね。錦之助もそうですしね。大川橋蔵、伏見扇太郎、それと尾上鯉之助。そのあたりまでくらいかな。やっぱり歌舞伎出身の役者というのは堂々としてるんだね。あんまりコンプレックスを持っていない。
まあ、ひばりなんかは貧しい階級出なんだけど、もって生まれたずうずうしさというのがあってね・・・けれども、そういうものがスターの顔をつくるんですね。結局、ある種の気位というか、嘘でもいいから気位の高い人間のほうがいいんです。スターらしくなっていくんですよね。いくら芝居がうまくてまじめな子でも、絶対にスターになれない子というのはいるんですよ。
糸圭
それで結局、スターとスターになれなかった人―――例えば大部屋の俳優とか、かなり待遇は違ってくるわけですか。もちろん給料も違ってくるでしょうし、素人目で考えると、かなり市民格差があるんじゃないかと思うんですけど。
笠原
いや、それは確かにそうなんですが、割り切っちゃうんですね。スターになるやつはスターになるんで、自分がなれないからといって、ひがむようなことはありませんでしたね。例えば、野球選手でも、イチローがうらやましいと言ったって、みんながみんな、イチローみたいになれるわけはないんでね。わりかしそういう点では気にはしてないですね。その代わり、タカるんですよ(笑)。
糸圭
ああ、なるほど。タカりタカられることによって、平等が実現すると(笑)。
笠原
そうそう(笑)。やっぱり映画というのは集団でつくりますからね。大部屋の連中にそっぽを向かれたら主役は成り立たなくなっちゃうんですよ。時代劇にしても、立ち回りの絡みでね、殺陣師がこうやれって言っても、そのとおり動かないんですよ。せっかく主役がいいところを見せようとして斬りかかっても、ソロっとソッポを向いたりしてね。
糸圭
そういうイジワルをするわけですか。
笠原
やりますよ!そういうことが伝統的にありますから、スターさんはもう、スタジオに入った時から、きちっと手当てをするわけですよ。制作部に何か持っていったり、大部屋にいくらか包み金を持っていくとか・・・政治家と同じですよ(笑)。それで、撮影が終わると、大部屋の俳優の顔利きをズラッと十何人、祇園で遊ばせるんだから、これは金がかかりますよ。しかも、みんな、ここぞとばかりガボガボ高い酒を飲むわけでしょ(笑)。それを黙ってスターは払わないとならない。また、そういう時にかぎって下っ端の連中は愛想がいいんですよ、「大将!大将!」なんて言ってね(笑)。
荒井
僕たちはそういう話を聞いて映画界に入ったんですけど、もう僕らのころになると、誰も金を持ってませんでしたね(笑)。

この対談の知識があれば、「スタニスラフスキー理論・メソッド演技」と、歌舞伎系の「型」の演技の違いを、映画などから見分けられるようになれるよ。

いろいろ知識を吸収して、役者としてドンドン大きくなっていきましょう。
参考文献
「映画脚本家 笠原和夫 昭和の劇」 太田出版
「映画はやくざなり」 新潮社
「魂の演技レッスン22 輝く俳優になりなさい!」 フィルムアート社

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