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シェイクスピア劇
演技論
シェイクスピアの戯曲には、ほとんどすべてに下敷きというか元ネタがあって、シェイクスピアの劇は100%彼の創作ではなかったんだって。
そうなんですか!
シェイクスピアは、先人たちの書き残した物語や戯曲をふるいにかけて、その良いところは伸ばし、悪いところは捨てるといった方法で彼独自の劇を完成させたの。
以上のことは、新潮文庫「ハムレット」で、中村保男氏が述べられた解説からの引用なんだけど…
その新潮文庫「ハムレット」の翻訳をされた福田恆存(ふくだつねあり)氏の、【シェイクスピア劇の演劇論】が、とても興味深い内容だったので紹介させていただきますね。
「ハムレット」新潮文庫より
ギリシア悲劇が運命の劇であるのにたいして、シェイクスピアの悲劇は、主人公の性格のうちに、悲劇の因(もと)があるという見かたから、性格の劇であるといわれております。
そこまではよろしい。
が、だからといって、シェイクスピア劇は性格を描いたものだということはできません。心理的に辻褄(つじつま)が合わぬばかりでなく、性格という点でも、時には辻褄が合わなくなること、すくなくとも、性格上の辻褄などどうでもいいと思われること、そういうところがシェイクスピア劇においては、随所に出てまいります。

まずシェイクスピアの脚本を与えられたなら、演出家も役者も、たとえば「ハムレットの性格は?」とか、「このばあいのマクベスの心理は?」とかいうことに、あまりとらわれてはなりません。
役者が現代劇をやるばあいに、よくやることですが、自分のもらった役のせりふのすべてから、その役の性格や心理を帰納的に抽出するということは、もっとも避けねばならぬことです。

シェイクスピアが一つの劇を書きあげるとき、どういうところからはいっていったか。そのことだけを考えてみるといいと思います。

制作時のかれの意識は、まず事件を書くことでした。最小限度、それだけは明確に意識のうえにのぼっていたといえましょう。
つまり、劇の効果を、かれはつねに過(あやま)たず追っていたのです。それならば、役者も、そういう制作時代の作者の心理を追うに越したことはありますまい。
ハムレットをふられた役者は、ハムレットの性格の分析からではなく、劇中においてハムレットが演じる役割の把握(はあく)から、自分の役にはいっていくのが自然なのです。このことは、すべての役についていえます。

それが作者のねらう劇的効果にもっとも忠実なる方法であります。
私のいう劇的効果がたんに技術的なものでないことは、いうまでもありません。もっと内面的、本質的なものであります。不安、怒り、悲しみ、懐疑、嫉妬、愛欲、憎悪、我執、野心、侮蔑、その他もろもろの情熱を刺激し、浄化する劇的効果のことであります。
『ハムレット』なら『ハムレット』において、この刺激と浄化の過程がいかに組み合わされ、いかなる順序によって展開されていくか、そして各場各場が、その全体的効果に到達するために、どういう役割をはたしているか、さらにその場のなかで自分がどういう役割をはたさねばならないか、そのことこそ、めいめいの役者の最大関心事であるべきです。

ここに一つの疑問が残ります。
それでは、ハムレット、ポローニアス等々の性格に矛盾ができてきはしないかということです。
なるほど、ハムレットは向こう見ずなところもあるし、軽薄なところもある。かと思えば、沈鬱でもあり、慎重でもあり、懐疑家めいたところもある。ひどく酷薄であるかと思うと、また大層やさしく、人なつこい。そういう点では、矛盾していますが、人間の性格は、懐疑家型とか行動家型とか、簡単に割り切れるものでしょうか。あの人は善人だとか、人情家だとか、そんなふうに割り切れるものでしょうか。いったい私たちに性格などというものがあるのかどうか。あったとしても、それが、一定の期間に一定の相手との間に生じる言動のうちに、単純に現れるものではありますまい。

ハムレットにしても、かれが喋ったりおこなったりしていることがらからだけ、自分を判断されては迷惑だというかも知れません。
劇のせりふは、その一つ一つが、そのばあい、そうではなくいえたものばかりであります。すなわち、そのばあい、ああもいったかもしれず、こうもいったかもしれぬ十のせりふのうちの一つだということです。

せりふにかぎりません。行為についても同様です。ということは、別様にいったら、また別様に行為したら、異なった性格に見えたかもしれぬということです。
ハムレットの性格がその言動だけから判断できぬならば、軽々にハムレットの性格などを規定せぬほうがいいのです。が、それはハムレットに性格がないということではない。むしろ、ハムレットが一つの性格として生きているということを意味します。ハムレットはハムレット以外のなにものでもありえぬように立派に生きております。
別様にも喋ることができ、別様にも行為しえたハムレット――役者がそこに達するために、私は性格分析などということに捉(とら)われるなと申しているのです。

シェイクスピアは性格描写などを目的としていなかった。劇は描写ではありません。
「第四の壁」という演劇観は、シェイクスピアのうちには存在しなかった。一つの部屋の四つの壁のうち一つをとりはらって、観客に見えるようにしたものが劇だという考えほど、劇をつまらなくする考えかたはない。それなら観客は見ているだけです。のぞいているだけです。役者はのぞかれていることを知らぬふりをして、舞台と客席との間に壁があるごとく、すなわち人生そのままに芝居をやるということになる。それなら、劇は描写です。役者は性格や職業や、感情や、その他すべてを肉体で描写すればいいのです。
が、シェイクスピア時代の舞台では、プロセニアム・ステイジ(額縁がくぶち舞台)ではなく、能舞台のようなエプロン・ステイジ(張出舞台)でした。額縁の中の絵を見るように、客席から眺められていたのではなく、観客と交歓できるように客席の中に突き出ていたのです。当時の観客が求めていたことは、同時にまたかれらに求められていたことは、劇中人物と同様の情熱を体験することだったのです。各場各場の展開にしたがって、刺激と浄化の過程を味わうことだったのです。
ハムレット役者はハムレットの性格を描写するのではなく、観客がそのつどハムレットにこうしてもらいたいと願うことをやってのけることによって、観客の心理的願望を満たしてやらなければならない。
シェイクスピア劇では、役者は観客が自己の心理的効果を充実させるため、観客の身代わりとして、舞台にのぼっているのだということを忘れてはならないのです。
というのは、かれはハムレットでありながら、同時に、その解説者として舞台と客席との通路に立っていなければならないということになります。極端にいうと、「そら、これから懐疑家ハムレットをお見せしますよ」「そら、これから弱気のマクベスを御覧に入れますよ」といった構えが必要です。役者の側からいえば、それが解説的ということです。が、その余裕があればこそ、役者も観客も、次の段階で行動的なハムレット、ふてぶてしいマクベスに易々(やすやす)と移行できるのです。
もちろん、この役を操る手つきは、浅いところで、あざとい形で見せてはなりません。観客に対する効果は、安易な「受け」をねらってはなりません。たしかにその危険はあります。が、それは同様に、いわゆる役に「成りきる」という描写的リアリズムの演技にもつきまとうものです。役を操る手を見せるというのは、一口にいえば、役者は登場人物の一人であるばかりでなく、作者の心になりきれということです。劇的効果の一貫性を保とうとする作者の立場になれということです。
なぜなら、シェイクスピア劇は、つねにそういうふうに書かれているからです。
シェイクスピア劇では、役者もまた作者にならなければならない。作者もまた役者にならなければならない。作者と役者と観客との三位一体(さんみいったい)があるのです。
劇的効果に忠実であれば、性格も心理も運命も宇宙も把握できるということが、シェイクスピア劇の秘密であるといえましょう。
いいかえれば、私たちは『ハムレット』の劇的効果を追及することによって、ハムレットの性格のもっとも深いところに到達できるのです。
福田恆存(ふくだつねあり) 1912-1994
  • 東京生まれ。東大英文科卒。評論・翻訳・劇作・演出の各分野で精力的に活躍。主著には『人間・この劇的なるもの』等多数。芸術院会員。
「ほら、あの人ってこういうキャラだから」と単純に考えるのではなく、人間にはいろんな面があるよ、それは劇の人物も同じだよ、という演技論ですね。いろんな考え方があるんですね。
いいものを吸収して、役者としての成長に役立てましょう。
ハムレット雑学
『ハムレット』の台本は三種類、存在します。
Q1 First Quarto
(1603年刊)海賊版
Q2 Second Quarto
(1604年刊)シェイクスピアの生原稿
F1 First Folio
(1623年刊)シェイクスピア劇団の上演台本

Q1の海賊版とは?
戯曲(劇の台本)の出版は上演後に行われるのが普通です。1600年当時はことに遅れました。
『ハムレット』が初演当時(1601年か1602年と推定されています)から非常に好評だったので、劇団や作者の許可を得ぬまま、勝手に出版しようと企(くわだ)てる出版社が現れ、初演に端役で出演した雇いの役者(シェイクスピア劇団の劇団員以外の役者)を買収し、彼らの記憶を頼りに、相当の部分は自分たちで台詞をでっちあげ「シェイクスピア作」と詐称して出版したものと推定されています。(諸説あります)

Q1の海賊版は、Q2の約半分の長さしかありません。
おまけに、この二つはそれぞれF1とも相当に大きく異なっています。
Q2の行数は3800行近くありますが、F1は3500行です。しかしQ2にないところが80行余りあるのです。
稽古中や上演中に、台本に一つも手を入れなかったということはありえないし、また出版用の写しを作る前に勝手な削除や加筆がおこなわれたのでは、と考えられています。

現在一般に用いられている本文は、Q2とF1とを照らし合わせ、一方にない部分は他方で補うなど、両者をつなぎ合わせた合成版です。

しかしこの現行版はシェイクスピア全作品の中でも異例の長さとなってしまい、『マクベス』と比べると、ほぼ二倍。カットなしで全文を上演すれば、日本語版なら、どんなにテンポをあげても、4時間半から5時間はかかるといわれています。
イギリスでもノーカットの上演は、そのこと自体で大きな話題になるほどめずらしく20世紀を通じても数回しかありません。
日本でも現行版を上演するには、ほとんど半分近くカットしなくてはならず、どこをどう切るかは結局のところ演出家の判断にゆだねられているんですね。
劇作家ブレヒトは「シェイクスピアの劇場」で、こう述べています。

1601年に書かれたある芝居の原稿をみると、いくつものヴァリエーションが載っていて、その縁に作者がこういう注意を書いている――「このいろいろのヴァリエーションの中から、諸君がいちばんよいと思うものをえらんでほしい」。さらに、「この言い回しがむずかしすぎるか、見物に向かない場合には、ほかの言い方にかえても一向さしつかえない」

「ハムレット」第四幕はいくつもの場面からなりたっているが、そのひとつひとつに、問題の解決が暗示されている。もしかすると演技者はそれをみんな使ったのかもしれない。だがことによると、そのうちの一場面しか使わなかったのに、他の場面までが印刷されてしまったのかもしれない。これらの場面にはどれも、思いつきみたいなところがあるからね。

ハムレットの源
シェイクスピアと同時代の劇作家、トマス・キッドが書いたものらしい『原ハムレット』が、シェイクスピアの『ハムレット』の出る数年前までロンドンで上演されていました。
シェイクスピアはこれを観て『ハムレット』の着想を得たのだろう、といわれています。
さらに遡(さかのぼ)れば、デンマーク人サクソーの『デンマーク国民史』第三巻に「ハムレット」物語が出てきます。
それはラテン語で書かれていますが、その骨子をフランスのベルフォレーが1582年刊の仏文『悲劇物語』第五巻に書き下ろしています。
シェイクスピアのハムレットは、そのいずれか、あるいは両方に負うているのかもしれません。
シェイクスピアとの関係を別にすれば、「ハムレット」物語の源流は民間伝承や民族詩のうちにも求められます。
シェイクスピアが直接それらから借りたのではないにしても、キッドの『原ハムレット』は、そのいずれかを取り入れていたであろうし、それが現在のシェイクスピア「ハムレット」の原型だろうといわれてます。
「ハムレット」は暗黒の場面に始まり、澄みきった光の中で終わる、そのように演出されることの多い劇です。
「ハムレット」はシェイクスピア劇の中で最もよく上演される人気の高いお芝居です。
最後に。
海賊版と呼ばれているQ1ですが、正しい版よりも話の流れが実に自然ですっきりしているので、近年では見直しが進んでます。1989〜90年のロイヤル・シェイクスピア劇団の公演でも、Q1と同じようにアレンジした「ハムレット」が上演されたそうですよ。
参考文献
「ハムレット」  新潮文庫
「ハムレット Q1」 光文社文庫
ベルトルト・ブレヒト演劇論集「真鍮買い」 河出書房新社